「フランス料理の5大母ソース」を覚えようとして、資料によって数が違うことに気づいた人は多いはずです。5つと書くもの、7つと数えるもの、エスパニョールとヴルーテを1つにまとめるもの。
理由は単純です。この体系は、もともと組み替えられてきたものだからです。
5大母ソースは、もともと4つだった
現代の5種が固まるまでに、約70年かかっています。
| 年 | 誰 | 何をしたか |
|---|---|---|
| 1833 | カレーム | 4つのグランドソースを定めた。ベシャメル / ヴルーテ / エスパニョール / アルマンド |
| 1903 | エスコフィエ | アルマンドをヴルーテの派生に降格し、トマトを追加 |
| 1907 | 同・英語版 | オランデーズが母ソースに昇格(1903年の仏語版では小ソース扱いだった) |
カレームの4つに、トマトもオランデーズも入っていません。そして今や母ソースとされないアルマンドが、当時は母でした。
母か娘かは、版によって入れ替わっている。 アルマンドは母から娘に落ち、オランデーズは娘から母に上がりました。
だから分類は論者によって違う
現代でも一致していません。エスパニョールとヴルーテを統合する体系、ヴィネグレットを加える体系、7つに数える体系がそれぞれ流通しています。
揺れるのは当然です。 もともと組み替えられてきたものなので、どの版を基準にするかで数が変わります。
だから「5つを正確に覚える」という発想自体が的を外しています。覚えるべきは数ではなく、なぜ束ねられたのかです。
定義の幅も同じ理由で生まれます。ある派生ソースに特定の酒が必須かどうかといった議論が起きるのは、この体系が厳密な規格ではなく、運用の中で揺れる分類だからです。
カレームがやったのは分類ではなく「還元」
カレームは、料理は言語や幾何学と同じく本質的な形に還元し、そこから変化させて広げられるものだと考えていました。
つまり彼がやったのは、料理を並べて分類することではありません。無数のソースを少数の原型に還元する作業です。そして原型から 小ソース(petites sauces) が数十種類派生する体系を作りました。
この見方をすると、母ソースは「覚える表」ではなく「還元の結果」になります。版によって数が動くのは、還元の切り口が変わっただけで、矛盾ではありません。
そして還元は今も続けられます。濃度と味の2軸でソースを読むのも、カレームと同じ営みの延長にあります。
母ソース5種を濃度機構で読み直す
「何で濃度をつけているか」で並べ直すと、体系の骨格が見えてきます。
| 母ソース | ベース | 濃度の機構 | 性格 |
|---|---|---|---|
| ベシャメル | 牛乳 | でんぷん(白いルー) | 乳のコク |
| ヴルーテ | 白いフォン(仔牛・鶏・魚) | でんぷん(黄色いルー) | 素材の旨味を活かす |
| エスパニョール | 褐色のフォン | でんぷん(褐色ルー)+ 煮詰め | 力強い |
| トマト | トマト | すりつぶし+煮詰め | 酸と甘み |
| オランデーズ | 溶かしバター | 乳化(卵黄) | 温度帯が狭い |
5つのうち3つがルー由来です。
母ソース体系は実質「ルーの体系」で、そこにトマトとオランデーズが後から加わった構造だと分かります。
ベシャメルとヴルーテは何が違うのか
同じ機構(ルー)を使うので混同されやすいですが、違いは2つだけです。
| ベース | ルーの色(鍋底温度) | |
|---|---|---|
| ベシャメル | 牛乳 | 白いルー(130℃) |
| ヴルーテ | 白いフォン | 黄色いルー(140〜150℃) |
| エスパニョール | 褐色のフォン | 褐色ルー(170〜180℃) |
乳のコクを取るか素材の旨味を取るか、そしてルーを何度まで炒めるか。この2つの組み合わせが3つの母ソースを分けています。
つまり「ベシャメル・ヴルーテ・エスパニョール」は別々の技術ではありません。ルーの温度とベースの組み合わせ表として読めます。
派生ソースは「母に何を足すか」
母ソースの価値は、そこから派生できることにあります。仕込んでおけば、足すものを変えるだけで別のソースになる。
考え方だけ示します(数を覚える必要はありません)。
| 母ソース | 足すもの | できるもの |
|---|---|---|
| ベシャメル | チーズ | モルネー |
| ベシャメル | 玉ねぎ | スービーズ |
| ヴルーテ | 生クリームと卵黄 | アルマンド |
| エスパニョール | 煮詰め | ドゥミグラス |
3行目に注目してください。アルマンドは「ヴルーテに生クリームと卵黄を足したもの」 です。
だからエスコフィエがアルマンドを娘に降格させたのは筋が通っています。母ソースから作れるものは母ソースではない——還元の考え方を徹底すれば、そうなります。
ドゥミグラスからさらに煮詰めるとグラス・ド・ヴィアンドになります。煮詰めの段階がそのまま体系の階層になっています。
この体系は「仕込んで使い回す」型
母ソース体系が成立する前提は、フォンを仕込んでおくことです。ヴルーテもエスパニョールも、フォンがなければ始まりません。
だからこれは仕込んだベースから作るソースの体系です。前日からの準備が要る代わりに、営業中は速い。
対して鍋の副産物から作るソースは仕込みが要らず4〜5分で完成します。同じフランス料理の中に、時間軸の違う2つの系統があるわけです。
家庭で母ソース体系をそのまま再現する必要はありません。ただしベシャメルだけは牛乳から作れるので仕込みが要りません。家庭でベシャメルが最も身近なのは、この手軽さと関係があるように見えます。
まとめ:数ではなく還元の切り口を読む
- 5大母ソースは不変の体系ではない。カレームは4つ、エスコフィエが5つにし、オランデーズは1907年の英語版で昇格した
- だから論者によって分類が違う。揺れるのは、もともと組み替えられてきたものだから
- カレームがやったのは分類ではなく還元。母ソースは「覚える表」ではなく「還元の結果」
- 5つのうち3つがルー由来。体系の拡張は、別の濃度機構(すりつぶし・乳化)を取り込むことだった
- ベシャメル・ヴルーテ・エスパニョールを分けているのはルーの温度とベースの組み合わせ
- 派生は母に何を足すかで決まる。母から作れるものは母ではないという整理が、アルマンドの降格を説明する
参考文献
- Escoffier School of Culinary Arts「How to Make the 5 Mother Sauces」— エスコフィエによる母ソースの体系について
- Savory Kitchin「Deep History of the Five Mother Sauces」— カレームの4種からエスコフィエの5種への変遷について
- Escoffier Online「Our Guide to Escoffier's 5 Mother Sauces」— 母ソースの定義について
- 瓦家千代子「調理と科学(8) 小麦粉の調理」生活衛生 29巻2号 (1985) — ルーの鍋底温度と対応するソースについて