洋食のレシピは「塩少々、こしょう、白ワインを加えて」とその場で味を決めます。和食の板場はそうしません。あらかじめ合わせた調味液を作っておき、そこに食材を通します。この調味液を「地(じ)」と呼びます。
八方だし、幽庵地、づけ地、割下——名前はばらばらですが、これらは1つの体系です。基準が1つあって、用途で振っている。その構造が見えると、レシピごとに数字を覚える必要がなくなります。
和食は「地」を先に作る
「地」とは、調味料をあらかじめ比率で合わせておいた液のことです。
| その場で調味する | 地を使う | |
|---|---|---|
| 味を決めるタイミング | 加熱しながら随時 | 仕込みの段階で確定 |
| 再現性 | 作り手の感覚に依存 | 比率が記録できる |
| 向く操作 | 炒める・焼く | 煮る・漬ける・浸す |
地が有効なのは、食材を液に浸す操作です。煮物や漬け物では食材が液に囲まれるので、液の濃度がそのまま仕上がりの味になります。だから液の側を先に完成させておくほうが確実です。
基準は八方だし——だし8:醤油1:みりん1
すべての基準になるのが八方だしです。
だし : みりん : 醤油 = 8 : 1 : 1
名前は「八方(多方面)に使える」ことに由来します。煮物、汁物、鍋のつゆ、麺つゆの代わりまで、これ1つで回せるという意味です。
めんつゆとは何が違うのか
同じ「だし・みりん・醤油」の組み合わせなのに、めんつゆは別物です。
| だし : みりん : 醤油 | 性格 | |
|---|---|---|
| 八方だし | 8 : 1 : 1 | だしが8割。そのまま煮汁になる濃度 |
| めんつゆ | 3 : 1 : 1 | 味付け成分が濃い。薄めて使う前提 |
出典(小林食品)の実測では、100gあたりの食塩相当量が八方だし4.6g に対しめんつゆ14.5g と約3倍の差があります。めんつゆを八方だしの代わりに使うと味が決まらないのは、この設計の違いによります。
用途で振る——4つの八方
八方だしは1種類ではありません。何を避けたいかで4つに振ります。
| 名前 | 何のために振るか | 配合(出典の実数値) |
|---|---|---|
| 塩八方 | 醤油の色をつけたくない | だし500ml・酒50ml・みりん50ml・塩小さじ1 |
| 酒八方 | 生臭みを抑えたい(貝・白身魚) | だし200ml・酒300ml・みりん50ml・塩小さじ1/2・濃口15ml・薄口15ml |
| 濃口八方 | 醤油の香りをつけたい | だし500ml・酒50ml・みりん50ml・塩小さじ1・濃口醤油30ml |
| 薄口八方 | 薄味で煮たい | だし500ml・酒50ml・みりん50ml・塩小さじ1/2・薄口醤油30ml |
出典: 日本料理・会席案内所
★酒八方だけ構造が違います。他の3つがだし500mlに酒50mlなのに対し、酒八方はだし200mlに酒300ml——だしより酒が多い。生臭みをアルコールの揮発とともに飛ばすのが目的なので、酒洗いと同じ発想を煮汁の側でやっていることになります。
色をつけたくないときに薄口醤油ではなく塩を使うのは、薄口が「色は薄いが塩分は濃口より高い」調味料だからです。
地は煮るだけではない——漬ける地
同じ「地」でも、漬けるための地は比率が変わります。
| 地 | 比率 | 用途 |
|---|---|---|
| 八方だし | だし8 : みりん1 : 醤油1 | 煮る(だしが主体) |
| 幽庵地 | 醤油1 : 酒1 : みりん1 + 柑橘 | 漬ける(だしを使わない) |
幽庵地にはだしが入りません。 醤油・酒・みりんを同量で合わせ、そこに柚子やかぼす、すだちのスライスを加えます。漬け込みは30分が目安です。
だしを抜くのは、漬けている間に食材から水が出るからです。煮る場合は液が食材を囲んだまま加熱で煮詰まっていきますが、漬ける場合は食材の水分で薄まる方向にしか動きません。最初から濃く作っておく必要があります。
★なお、幽庵焼きの由来を江戸期の茶人・北村祐庵とする説が広く紹介されていますが、諸説あり確定していません。この記事では技法の構造だけを扱います。
合わせ酢との違い——「かける地」は別系統
和食の合わせ調味料には、もう1つの系統があります。三杯酢・二杯酢・土佐酢といった合わせ酢です。
| この記事で扱う「地」 | 合わせ酢 | |
|---|---|---|
| ベース | だし(または醤油・酒・みりん) | 酢 |
| 操作 | 煮る・漬ける(液に通す) | かける・和える(仕上げに使う) |
| 加熱 | する | しないことが多い |
合わせ酢の体系は和食の合わせ調味料で扱っています。あちらは「名前が構成要素の数を示している」(二杯酢=2つ、三杯酢=3つ)という切り口で、和食が割合で作られていることを別の角度から示した記事です。
どちらも「比率で持つ」という同じ思想の産物ですが、液の役割が違います。地は食材の中に味を入れるため、合わせ酢は食材の外にまとわせるためのものです。
世界の同じ発想
「基礎になる合わせを先に作っておく」という発想は、和食に限りません。
| 料理 | 名前 | 何を先に作るか |
|---|---|---|
| 日本 | 地(八方だし・幽庵地) | 調味液を比率で |
| イタリア | ソッフリット | 香味野菜を炒めた風味の土台 |
| フランス | ミルポワ/ブーケガルニ | 香味野菜・ハーブ束 |
| 中国 | 葱姜水 | 葱と生姜を浸けた水 |
| 韓国 | ヤンニョム | 唐辛子・にんにく等の合わせ調味料 |
★並べると、和食だけが「比率」を名前と一体で持っていることが分かります。ソッフリットもミルポワも「何を入れるか」の名前ですが、八方だしは「8:1:1という設計そのもの」が名前になっている。三杯酢が「3つ」を名乗るのと同じ構造です。
和食が数字で技術を伝えてきたことの現れだと言えます。
世界の合わせ調味を「何を固定するか」「最後に残るか」の2軸で並べた比較は調味の設計まとめにあります。
まとめ
- 和食は調味液を先に作る。これを「地」と呼び、煮る・漬ける操作で使います
- 基準は八方だし(だし8:みりん1:醤油1)。だしが8割なのでそのまま煮汁になる濃度です。めんつゆ(3:1:1)は薄めて使う前提の別物で、塩分は約3倍あります
- 用途で4つに振ります。色をつけたくないなら塩八方、生臭みを抑えたいなら酒八方(だしより酒が多い)
- 煮る地と漬ける地では、だしの有無が逆になります。煮ると液は濃くなり、漬けると薄まる——水の動く方向が逆だからです
- 酢ベースの合わせ酢は別系統です。地は味を中に入れるもの、合わせ酢は外にまとわせるもの
- ★店ごと・地域ごとに割合は違います。出典も明言しているとおり、唯一の正解はありません。基準を1つ持って、そこから自分で振るための記事です