この記事でわかること
- 純粋な油が無味で、脂の味が遅れて出てくる理由
- 第6の基本味として、どこまで確かめられているか
- 脂肪酸の味が警告の味である理由と、鎖長で変わること
- 「脂がうまい」の4つの中身と、どれを触れば何が変わるか
サラダ油を小さじ1杯なめてみると、ほとんど何の味もしません。ところが同じ油で揚げたものはおいしい。脂は「うまい」はずなのに、油そのものには味がない。
この記事が扱うのは、料理の科学の⑥「人がどう感じるか」の群のうち、第6の基本味の候補としての脂肪の味です。口どけの物性でも、コクへの寄与でもありません。
結論を先に置きます。脂肪酸の味は、研究の中では「おいしい味」として扱われていません。 苦味や酸味と同じ、警告の側の感覚です。
味覚の記事群の中での立ち位置:まだ確定していない6番目
基本味とその候補を並べる
| 感覚 | 何が受容体を叩くか | 基本味か |
|---|---|---|
| 甘味 | 糖(T1R2/T1R3) | 基本味 |
| 塩味 | ナトリウムイオン(ENaC) | 基本味 |
| 酸味 | 水素イオン(OTOP1) | 基本味 |
| 苦味 | 多様な化合物(T2R 約25種) | 基本味 |
| うま味 | アミノ酸・核酸(T1R1/T1R3) | 基本味 |
| 脂肪の味(この記事) | 遊離脂肪酸(CD36・GPR120 が候補) | 候補。確定していない |
| 辛味 | カプサイシンなど(TRPV1=痛覚の受容体) | 基本味ではない |
| 渋味 | 専用の受容体は無い | 基本味ではない |
| コク | γ-グルタミルペプチドなど(CaSR) | 基本味ではない |
辛味と渋味は「基本味ではない」と分かっていますが、脂肪の味は違います。基本味になるかもしれない、まだ決着していない位置にいます。どこまで来ているかは後の節で段階ごとに見ます。
脂の記事は3本あり、この記事は「味」を担当する
脂については、問いの違う記事が3本あります。混ぜて読むと分からなくなります。
| 記事 | 扱う問い | 何で決まるか |
|---|---|---|
| 脂肪の融点と口どけの科学 | 溶けるか固まるか | 脂肪酸の鎖の形と、体温との差 |
| 脂質酸化の科学 | 何が壊れるか | 熱・酸素・時間 |
| 脂肪の味の科学(この記事) | 舌が何を捉えるか | 遊離脂肪酸の量と種類 |
純粋な油には味がない
水に溶けないものは味細胞を刺激できない
冒頭の違和感には、はっきりした答えがあります。山本隆はこう書いています。「純粋の油(脂)は、トリグリセリドといわれる構造を有し、水に不溶性であるため味細胞を刺激できず無味である」。
味細胞は水に溶けたものしか受け取れません。油の正体であるトリグリセリドは水に溶けないので、そのままでは味の信号になりません。
だから脂の味は遅れて出る
では、なぜ食べているうちに脂の味を感じるのか。口の中で分解されるからです。
舌の奥にある溝の底に、エブネル腺という小さな唾液腺が開いています。ここから出るリパーゼが、トリグリセリドを脂肪酸とグリセリンに切り分けます。10秒もすれば分解が始まるとされます。
分解されたあとの行き先も分かれます。グリセリンは甘味受容体に結合し、脂肪酸は味細胞の膜にある脂肪酸受容体を介して刺激を起こします。
だから脂の味は、口に入れた瞬間ではなく噛んでいるうちに出てきます。よく噛ませる切り方や火入れにすると、同じ脂でも味が立ちます。
基本味の条件と、脂肪の味がどこまで来ているか
認められるための条件
「第6の基本味」と書く記事と「候補にすぎない」と書く記事が混在していて、読者はどちらを信じるか決められません。条件を分けて、それぞれどこまで来ているかを見ます。
基本味と認められるには、おおよそ3つが要ります。
- 専用の受容体がある
- 他の味とは独立した神経経路がある
- 他の味の組み合わせでは作れない固有の味質がある
受容体・神経・ヒトの官能で、それぞれどこまで
| 条件 | 5つの基本味 | 脂肪の味 |
|---|---|---|
| 専用の受容体 | 特定されている | GPR40・GPR120 という受容体と CD36 というトランスポーターが候補。げっ歯類の味蕾(みらい)細胞にあると示唆されている |
| 独立した神経経路 | 特定されている | マウスの鼓索神経で、脂肪酸に特異的に応答する線維が見つかった(全体の約17.9%) |
| 固有の味質 | 確立している | ヒトの知覚マッピングで、中鎖・長鎖の遊離脂肪酸の味が他の基本味と区別された |
出典: 受容体と神経は九州大学プレスリリース「脂肪酸が第6番目の基本味である証拠となる神経を新発見」2019年2月5日(原著は Yasumatsu ほか, Acta Physiologica, 2019)。ヒトの官能は Running ほか, Chemical Senses 40(7), 2015
神経の証拠には続きがあります。GPR120 を持たないマウスではこの神経が激減し、行動実験でリノール酸とうま味物質のグルタミン酸を区別できなくなりました。受容体を外すと味の区別が消えるので、この経路で味が伝わっている、と言えます。
ヒトの官能の側では、遊離脂肪酸の味がうま味と一部重なりました。ただしこれは、被験者がうま味の感覚に不慣れだったためで、本当に似ているわけではないとされています。
九州大学のプレスリリース自身が、それまでの状況をこう書いています。受容体の存在は「示唆されていましたが、ヒトの官能評価、げっ歯類の嗜好性、そして細胞の応答性に関する今までの研究では、脂肪酸独自の味の存在を証明することはできませんでした」。
証拠は積み上がっています。ただし神経の記録はマウスのものです。ヒトでの受容体と神経経路の確定が残っているので、当サイトは「候補」と書きます。
脂肪の味は「おいしい味」ではない
研究が言っているのは逆のこと
日本語の解説では「脂肪味はコクと満足感を底上げする」と書かれていることがあります。ところが oleogustus を提案した研究の記述は逆向きです。
脂肪の味そのものは快いものではなく、食品中の脂肪酸の濃度が高いときはふつう拒否される。食品が腐敗したときがまさにその場合である。
つまり遊離脂肪酸の味は、おいしさの信号ではなく劣化の警告です。「脂肪味を足せばコクが出る」という説明は、研究の中身と食い違います。
他の警告の味と並べる
そう考えると、収まりのいい場所があります。
| 感覚 | 何の警告か | 少量・文脈で嗜好に転じるか |
|---|---|---|
| 苦味 | 毒 | 転じる(コーヒー・ビール・山菜) |
| 酸味 | 腐敗・未熟 | 転じる(酢・柑橘・発酵食品) |
| 脂肪の味 | 脂の分解・酸化 | 転じる(熟成チーズ・発酵バター) |
3つとも単独では不快で、少量と文脈で嗜好に転じます。 脂肪の味だけが例外だと考える理由はありません。
鎖の長さでも感覚が変わります。短鎖の脂肪酸は酸味に似た感覚を起こし、鎖が長くなるにつれてこの感覚は変わります(Running ほか 2015)。だから酪酸の多いバターやチーズと、オレイン酸が中心のオリーブ油では、出てくる「脂の味」が別物になります。
「脂がうまい」の中身は4つある
4つの経路に分ける
では、読者が感じている「脂はうまい」は何だったのか。1つではなく4つあります。
| 何がおいしさを作るか | どこで決まるか | 触る場所 | 詳しくは |
|---|---|---|---|
| ① 口どけ | 脂の融点と体温の差 | 提供温度、脂の種類 | 脂肪の融点と口どけの科学 |
| ② 香り | 脂に溶けた香気成分と、加熱でできる香り | 加熱の入れ方、油の選び方 | 揮発性香気成分の科学 |
| ③ 他の味の増強 | うま味と甘味が上がり、苦味が抑えられる | コクの設計 | コクの科学 |
| ④ 脂肪酸そのものの味 | 遊離脂肪酸の量と鎖の長さ | 鮮度と発酵 | この記事 |
③の出典は山本隆の記述です。「油(脂)そのものは、5基本味のように明確な味を持たず、食べ物の味、とくにうま味や甘味を増強し、一方で苦味を抑えてトータルとして食べ物をおいしくする働きがあるものと思われる」。
どれを動かしたいかで触る場所が変わる
④だけが「脂肪の味」で、残りの3つは別の仕組みです。 「脂の味が足りない」と感じたとき、実際に足りないのは①か②か③であることがほとんどです。
- 口の中で溶けきらないなら①。提供温度を上げるか、融点の低い脂に替えます
- 香りが弱いなら②。焼き色をつけるか、香りを移した油を使います
- 味が平板なら③。コクの設計の問題で、脂を増やすだけでは重くなります
- ④を増やすと、たいてい劣化の味になります。 意図して増やすのは発酵と熟成の文脈だけです
台所での読み替え:味を劣化の計器として使う
新鮮な油は無味が正しい
ここが実務で一番使えるところです。脂質酸化の科学には揚げ油の交換判断の基準(色・粘度・泡・臭い・煙)がありますが、味という項目を足せます。
少量を小皿にとって冷まし、味を見ます。油そのものに味を感じたら、トリグリセリドが切れて遊離脂肪酸が増えているということです。
同じ読み替えができる場面がいくつもあります。
| 場面 | 何が起きているか | 判断 |
|---|---|---|
| 揚げ油に味が出てきた | 加水分解と酸化でトリグリセリドが切れた | 交換する。継ぎ足しても古い脂肪酸は残る |
| ナッツや全粒粉が「古い味」になった | 保存中に油脂が分解した | 戻らない。小分けにして冷蔵で予防する |
| バターが石鹸のような匂いになった | 短鎖の脂肪酸(酪酸など)が遊離した | 加熱菓子なら使えることもあるが、生食は避ける |
| 揚げ菓子が作りたてと味が違う | 衣に吸った油が分解した | 保存条件の問題。遮光と密閉で延ばす |
どういう化学反応で遊離脂肪酸が増えるかは脂質酸化の科学にあります。この記事は、その結果を舌で読む側です。
逆に、遊離脂肪酸を設計して使う
警告の味だからといって、避けるだけではありません。熟成チーズ・発酵バター・ブルーチーズ・ギー・なれずしは、遊離脂肪酸を意図的に増やして風味にしています。短鎖脂肪酸の割合が高いと、酸味に似た刺激と独特の匂いが前に出ます。
境目は濃度と文脈です。同じ酪酸でも、チーズなら風味、バターなら劣化。量と、そこに出てくるべきものかどうかで意味が反転します。苦味が毒の警告のままコーヒーの主役になったのと、同じ構造です。
まとめ
- 純粋な油は無味です。水に溶けないので味細胞を刺激できません。口の中でリパーゼが分解し、遊離脂肪酸になって初めて味として届きます
- 第6の基本味としては候補の段階です。受容体候補(CD36・GPR120)とマウスでの神経経路、ヒトでの官能の区別までは示されましたが、ヒトでの確定は残っています
- 脂肪酸の味そのものは快くありません。苦味や酸味と同じ警告の味で、濃度が高い食品は拒否されます
- 「脂がうまい」の中身は4つ(口どけ・香り・他の味の増強・脂肪酸の味)で、脂肪の味はそのうち1つだけです
- だから味は劣化の計器として使えます。新鮮な油が無味なのは正常で、味がしたら分解が進んでいます
よくある失敗と対策
油が劣化した諦める
- なぜ
- 加水分解と酸化でトリグリセリドが切れ、遊離脂肪酸が増えて味として出ています
- どうする
- 戻せません。交換します。継ぎ足しても古い脂肪酸は残ります
- 次から
- 揚げカスをすくい、使用後は冷まして遮光容器に移します
保存中に風味が落ちた部分的
- なぜ
- 保存中に油脂が分解して遊離脂肪酸が増え、脂肪酸の味と匂いが前に出ています
- どうする
- 軽ければ加熱して香りの強い素材と合わせます。強ければ諦めます
- 次から
- ナッツや全粒粉は小分けにして冷蔵し、空気に触れる面を減らします
小さなコツ
揚げ油を味で判断する
少量を小皿にとり、冷ましてから味を見ます
なぜ新鮮な油は無味で、味がするのは遊離脂肪酸が増えた証拠です
脂の味を引き出す
よく噛む必要のある切り方・火入れにします
なぜ唾液のリパーゼが分解して初めて脂肪酸の味が出ます